コロナ後の世界は政治が決める

2021/11/09


緊急事態が全国的に解除され、さらに飲食店の営業時間制限もなくなったのに、感染者数はこのところ収まっています。「コロナ危機は終わったのではないか」という期待が高まるのは当然です。このところ欧州では感染再拡大が起こっていますから、コロナ危機終了というのは確実ではないようです。ですが、ここではそういう仮定で話を進めます。

そこで、これから先、どうなるかを考えてみましょう。少し前までは、答えは簡単でした。コロナが終われば、世界は二つの大きなテーマに取り組むことになる。デジタルとグリーンです。コロナ危機をテレワークで乗り切ったことで、デジタル化が一層進むのは間違いありません。これから国際的な人流も再開される。海外からの訪問者がウイルスの変異種を持ち込むのは心配ですから、ワクチンや陰性の情報を掲載したデジタルアプリに活躍してもらわなければなりません。それでデジタル情報の国際化も進みます。

他方、グリーンについては若干微妙になっています。世界的な脱炭素化の動きが急速に進むとわれわれが年初に考えたのは、前任者のトランプ氏とは対照的に、バイデン大統領が脱炭素化を進めると宣言したからです。ところが、実際の政策にどれだけ予算をつけられるかが微妙になってきている。民主党の勝利が確実だと見られていたヴァージニア州の知事選挙で、共和党が勝利したことから、2022年の中間選挙では、共和党が上院も、下院も支配するのではないかといった懸念も生まれています。そうなったら、バイデン大統領は掲げた政策に予算をつけられなくなります。

結局、政治の問題なのです。コロナ危機が明らかにしたことは、アメリカで共和党を支持する国民と、民主党を支持する国民には根本的な思想の違いがあることです。民主党支持者がワクチン接種に前向きなのに、共和党支持者は後ろ向きといったことに、これがはっきり表れています。しかも現在は両者の力が拮抗している。こういう状況で政策方針が貫かれると予想するのは難しいのです。

これまでの予想では、米中の対立は心配だけれど、アメリカも、中国も経済的な力をますますつけて行くのは確かということでした。これもちょっと怪しくなったと私は考えています。

問題は中国でデルタ種のウイルスが蔓延し始めたことです。ファイザーのワクチンを開発したのは独ビオンテック社でしたが、ビオンテックは当初から中国のメーカーも巻き込んで開発を進めてきました。しかし、その後、中国はかたくなになりました。今や、中国製のワクチンしか有効性を認めない。デルタ種が蔓延しなかったらそれでもよかったのかもしれませんが、現在は感染が拡大している。中国政府自慢の国民監視システムをさらに強化してみたところで、米国製ワクチンを活用しないでデルタ種に勝てるとは思えません。中国経済の落ち込みは下手をすると長引くと考えています。

それで日本の政治です。10月末の選挙で岸田首相は満足のいく結果を上げたのではないでしょうか。選挙前に自民党の明らかな失政があって戦われたわけではありません。コロナは焦点でしたが、感染が急速に収束する中で選挙が行われたので、これもマイナスになったとは思えません。先進国を見回しても、上院で一議席でも失えば、政権の政策が実行できなくなるアメリカや、これまでメルケル首相が率いてきたCDUがとうとう政権から外れそうなドイツなどと比べて、日本の政治は安定しています。

「それなのに」と言いたいのですが、なぜ日本の政治には決然としたところがないのでしょうか。コロナ対策についても、行動規制をもっと強力にするとか、QRコードを使った感染経路追跡をするとか、むしろ国民が希望していると思われるハードな対策がありましたが、結局政府は面倒なことは何もやりませんでした。一時、それで不満が高まった。それで菅首相が退陣したのです。つまり、日本の政治の場合、国民の不満が高まると、選挙で野党に政権が移るのではなく、首相の首が変わるのです。野党に投票する人と、自民党に投票する人の間に、アメリカの共和党と民主党の支持者のような根本的な違いがあるとも思えません。

コロナの分科会に出席していた時に聞いた意見で、こうした日本人の感性をつくづく感じたものがありました。この夏のオリンピックは不人気でしたよね。ですが、その意見は、「政府がオリンピックを強行したので、国民は行動を自粛する意欲をなくし、それで感染拡大が起こった」というのです。ばかげた話だと思いました。コロナに感染するかどうかは、国民一人一人の生命にかかわる問題ではありませんか。それを「オリンピックを強行した」ので、国民は拗ねて、破れかぶれの行動をとったというのでしょうか。それでは日本人は幼児並みのメンタリティーということになります。

ともかく、これからの世界の行方は、日本のように政府への「近親コンプレックス」を底流にした政治ではなく、根本的な思想対立を背景にした政治が決めていくものと考えます。