新興企業 成長にハードル 『プロ投資家』の育成 不可欠
2021/11/05
成長と分配の好循環を政策課題に掲げた岸田新内閣。成長については「スタートアップ(新興企業)」の支援に力を入れるようだ。日本の新興企業の数は多いが、その成長力に問題がある。時価総額10億ドル(約1140億円)以上のユニコーン企業が3月時点でわずか4社、米国の274社、中国の127社に比べて大幅に見劣りする。
資本規模が大きな新興企業が少ない原因は、株式市場にも求められる。いまだ信用が乏しい企業への資金供給は、銀行の審査に基づく融資が適当で、株式投資はリスクが高すぎるというのが標準的考えだ。しかし近年は、とくに技術系の新興企業の急成長が目立つ。それゆえ株式市場に上場する前の段階の新事業への投資を促進し、成長を加速すべきという考えが有力になっている。未公開株の取引市場を発展させる試みが、米国を中心に多くの国で進められているのだ。
日本は遅れている。素性の分からない企業の株式への投資では詐欺の危険があり、素人ほど被害にあう危険は高い。そのため未公開株式投資は、「特定投資家」に限定するという原則は、どこの国も採用しているが、日本では純資産が「3億円」以上必要と、特定投資家の条件が厳しい。成長戦略におけるスタートアップ支援の重要性が高まる中、金融庁も今年6月に特定投資家の要件、手続きの緩和を提言した。
資本市場の規制緩和は望ましいが、もう一つ重要なのは、産業についての専門知識を持つ本当のプロ投資家が、自分の判断で大胆に投資できる環境作りだ。これには顕著な例がある。
ワクチン接種が進み、先進国では新型コロナウイルス収束の兆しが見え始めた。日本では、ファイザー(接種割合、全体の約82%)、モデルナ(約17%)のメッセンジャーRNA(mRNA)に基づく新型ワクチンが主力となった。米モデルナ社およびファイザー製ワクチンを開発した独ビオンテック社は、ともにスタートアップだ。大手ワクチン製造会社のうちファイザーは、ビオンテックが開発したワクチンの生産、販売に特化して大きく貢献したが、残りの大手はいまだワクチン開発に成功していないか、従来型の無害ウイルスを使ったワクチンを生産する。
DNAの遺伝子情報を細胞に伝えるmRNAを使い、ウイルスに対する抗体を促進する技術は専門家の注目を集めたが、技術的な困難が見込まれ、リスクを嫌う大手は開発を見送ったのだ。この開発に2008年設立のビオンテックや2010年設立のモデルナが踏み切ったことにスタートアップの意義がある。
両社とも、当初はmRNA技術を個人の遺伝子情報を取り入れた「がん治療」に適用する目標を立てていた。開発に時間のかかる作業で、両社とも、設立からコロナワクチンの緊急承認が得られた20年暮れまで、承認を受け、販売可能となった製品を生んでいない。それでも開発に必要な研究費が途絶えなかったのは、資本市場の力だ。
独紙によるとビオンテックの資金繰りはこうだった。販売収入がない中で研究費だけがかさみ、19年暮れまでに従業員1300人の同社の累積損失額は3億ユーロ(約400億円)に拡大した。だがこれをカバーし、さらに研究を加速するのに支障がないだけの資本を同社は取り込んだ。
主要な実績は、経営していたジェネリック薬品製造会社を売却し大資産家になったストリュングマン兄弟が、ビオンテック創業者の知見、人格にほれ込み、1・5億ユーロの投資をしたこと。創業者たちが作ったもう一つの企業、ガニメド・ファーマシューティカルズを日本のアステラス製薬に4・2億ユーロで売却したこと。さらに19年には欧州での私募と、米ナスダック市場への上場とで4億ユーロ以上の資金を得たことなどだ。
これはすべてコロナワクチンで同社が有名になる以前の話。売り物を持たない同社の技術力、先見性を見込んでリスク資本が集まったのだ。資本がなければmRNA技術の開発を進められず、開発した技術がなければ、その転用でコロナワクチン開発もできなかった。専門知識を持ち、大胆で長期的な投資ができる民間投資家は実に貴重だ。その役割は公的機関では取って代われない。コロナ前に同社が受け取った公的資金は、同社がつぎ込んだ研究費の二桁下の金額だ。公平性を考え、広く薄く資金をばらまく公的機関は、これはと見込んだ事業だけに資金を集中することができないのだ。
ビオンテック最高経営責任者(CEO)のウグル・サヒン氏は、20年1月に医学雑誌で中国・武漢でのコロナ感染のことを知ると、すぐにそれが世界的に拡大すると確信し、社内メールで社のすべての研究開発努力をワクチンに向けることを提言した。世界的感染とともに、mRNA技術のワクチンへの適用力も見抜いたのだろう。
成果は迅速で、同年4月にはドイツ国内での臨床実験が開始され、11月8日には米国での治験成績でワクチンが95%の有効性を持つと判明、12月9月には英国で90歳の女性が最初の接種者となった。
開発の決断から接種までわずか11か月というスピードは、ワクチン史上の最速記録。(第2位は60年代のおたふくかぜワクチンで、これは接種まで4年かかった)RNAへの踏み込みと言い、ワクチン開発への転換と言い、まさにCEOの一声で動くスタートアップの強みだ。もしワクチン開発が大手に委ねられていたら、いまだにわれわれはコロナ禍の闇をさまよっていただろう。
だが、スタートアップを飛躍させるには知見と判断力を備えた本物の投資家も不可欠。この二枚が揃ってこそ資本主義の力が発揮される。
(読売新聞『竹森俊平の世界潮流』2021年11月05日号より転載)