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本稿執筆時点(2012年3月20日)において、ロンドン・オリンピックの開幕まであと4ヶ月ほどとなった。また、8年後の2020年夏季オリンピックに関して、東京都の石原知事は、東日本大震災からの復興の一環として招致する方針を明らかにしている。こうした状況の中、本稿においては1964年の東京オリンピック開催以前の都市「東京」について、当時を表象する映画を素材として若干の考察を試みてみたい。
ところで、東京を表象する映画としては、どのような作品をあげることができるであろうか。2007年、アジアを代表する映画祭である「東京国際映画祭」において、フェスティバルとして20周年を迎えたことを記念して、「映画が見た東京」という特集が企画され、戦後から現代に至るまでの時代を対象に東京を舞台にした映画・計51本が上映された。上映されたのは、「野良犬」(1949年、黒澤明監督)、「現代人」(1952年、渋谷実監督)、「新宿泥棒日記」(1969年、大島渚監督)、「野獣狩り」(1973年、須川栄三監督)などの諸作品であった。この企画は、映画が映し出す大都市「東京」のさまざまな風景や人々の表情などを通して、東京とそこに暮らす人々の生活がどのように発展してきたのかという変遷をたどるという、意欲的な試みであったと評価できる。
実は、もしも東京が2016年のオリンピック開催都市に決定した場合には、この「映画が見た東京」はオリンピック「文化プログラム」の一つとして継続して実施されることが想定されていた企画なのであった。
そしてこの企画においては、日本を代表する映画監督である小津安二郎に関連する作品が3本も上映された。それは、小津が監督を務めた戦後第1作の「長屋紳士録」(1947年)、「東京暮色」(1957年)と、小津へのオマージュ作品である、ヴィム・ヴェンダース監督のドキュメンタリー作品「東京画」(1985年)の3作品である。
また、この企画においては上映されなかったが、小津の代表作として著名な「東京物語」(1953年)は、その名のとおり、東京を舞台とした作品である。その他、「東京の合唱」(1931年)、「東京の女」(1933年)、「東京の宿」(1935年)の諸作品にみられるとおり、小津安二郎は”東京”を題名とする作品を計5作品も監督している。さらに、「母を恋はずや」(1934年)は当初「東京暮色」という題名が予定されており、また、「一人息子」(1936年)は前年に「東京よいとこ」の題名で撮りかけて中止となった作品のトーキー用改訂版である(注1)。このように作品のタイトルを見ていくと、小津安二郎は生涯にわたって”東京”にこだわり続けた映画監督であったことが理解できる。
そして、これらの作品においては、主人公たちが最後に何らかの形で東京から離れていくことで物語が完結している、という共通点がある。たとえば、「東京の合唱」は、失業者である主人公が栃木で教職の口が見つかったという知らせを受け取る場面で終わっている。また、「東京の女」では、自分の姉がいかがわしい酒場で働いていることに耐え切れずに主人公の大学予科生は自殺してしまう。さらに、「東京の宿」では、主人公の喜八が知り合いの母子を助けるために窃盗を働き、巡査に逮捕されてしまう。「東京暮色」においては、主人公・明子は身ごもった子供を堕ろして、相手の男をなじった後に列車に飛び込み自殺してしまう。また、家出した母親は北海道行きを決意して、上野駅から旅立っていくのである。
こうした東京からの”離脱”とは、別の視点から見ると、経済成長や都市化への希望が、それらに対する疑念や負の側面を大きく上回っていた時代において、小津安二郎が映画というメディアを通じて、失われつつある東京(日本)の良さに惜別の情を示した物語であった、と読み解くこともできよう。そして、特に戦後の日本については、1952年にようやくアメリカ軍(連合軍)の占領から解放されたにもかかわらず、1964年の東京オリンピックやその後の高度経済成長を経て、小津安二郎の予感が的中するかのように、急速にアメリカ化していくことになる。なお、小津安二郎自身は東京オリンピックを見ることなく、前年の1963年12月に死去している。
さて、東京と題した一連の作品の中でも、小津安二郎の代表作とされる「東京物語」についてみていきたい。同作品のストーリーを要約すると、周吉ととみの老夫婦が東京の子供たちに会いに尾道というローカル・エリアから上京するが、子供たちの家でさえ落ち着くことができず、結局は尾道に帰ってゆくという物語である。周吉ととみの老夫婦は東京にやってきたものの、身勝手な生活をおくる子供たちの自宅では落ち着くことができないのであるが、東京で落ち着きを感じることができた場所が映画の中で2ヶ所だけ描かれている。それは、(原節子が演じる)義理の娘が一人暮らしする「公営住宅」と銀座松屋屋上の「展望塔」の2ヶ所である。
実は「東京物語」の公開の2年前に「公営住宅法」(1951年)が施行されている。この「公営住宅法」とは、国及び地方公共団体が健康で文化的な生活を営むに足りる住宅、すなわちパブリック(Public)な住宅を整備し、これを住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃で賃貸することを目的として制定された法律である。
「東京物語」の中では、老夫婦の二男の嫁、すなわち義理の娘が公営住宅に一人で住んでいるという設定になっている。この公営住宅はけっして広い住宅ではないのであるが、老夫婦の他の子供たち世帯が暮らす、場末の狭隘な民間住宅と比較すると、ある種の落ち着きを感じさせる空間として映画の中では描かれている。
また、老夫婦が落ち着きを感じることができた、もう一つの場所は「銀座松屋」屋上の展望塔である。当時は東京にまだ高い建物が少なかったので、現代でいえば「六本木ヒルズ」や「東京スカイツリー」の展望台のような役割を果たしていたものと推測される。
川本三郎(注2)が指摘している通り、「松屋銀座」は「東京物語」公開の前年(1952年)に米軍による接収が解除され、映画公開(11月)と同年の5月に新装開店しているのである。すなわち、「東京物語」に写されている松屋銀座とは、米軍から解放され、新装開店した直後の姿であることが理解できる。「東京物語」公開のわずか1年前ですら、映画の中で老夫婦が楽しんだような松屋銀座からの東京の眺望は、一般には公開されていなかった特権的な眺望であったのである。
そして、この「松屋銀座の展望塔」と、老夫婦の息子世帯が暮らす「荒川土手の家」は、二重の意味での二項対立の関係にある。一つは、当時の「松屋銀座の展望塔」が、東京の中で公共に開かれていた場所の中で最も高い場所の一つであったのに対して、「荒川土手の家」は海抜ゼロないしはマイナスという、東京の中でも最も低い場所に位置している、という対立関係である。このような土地の物理的な高低は、そのまま土地の経済的価値の高低のメタファーとなっている。
またもう一つは、「松屋銀座の展望塔」が東京の都心部から郊外に至るまで広々とした圏域を眺望できる場所であるのに対して、「荒川土手の家」は老夫婦が一時的に居候をするのさえ手狭な個人住宅の空間である、という対立関係である。
換言すると、「東京物語」の(東京の住人ではなく)地方出身者である老夫婦は、本来は落ち着くべきプライヴェート(Private)な空間では落ち着くことができずに、パブリックな空間においてのみ、ようやく落ち着くことができたのである。
こうした東京のパブリックな空間とは、全ての人に開かれてはいるものの、一方では誰のものでもない空間であり、その意味では、東京の住民よりも地方出身者の目により魅力的な空間に映ったはずである。そして、東京オリンピック開催を契機として、大都市・東京は高度経済成長を突き進んでいき、一見するとパブリックな空間はどんどんと豊かになっていくのに対して、プライヴェートな空間はますます痩せ細って、貧弱になっていくのである。小津安二郎の映画は、こうした痩せていく都市・東京の行く末を暗示しているかのような描写となっている。
以上述べてきた小津映画の分析は一つの例であるが、この例だけに限らず、そもそも映画(映像)とは、それぞれの作品に写された情報を表象するという機能を有している。
21世紀にグローバリゼーションがより一層進展すると予想される中で、それぞれの都市が今後どのような方向に進んでいくべきかをあらためて考え直すために、過去に撮影された「映画」を媒介として、今一度それぞれの過去に立ち返ってみることも時には有用ではないだろうか。本稿がそうした試みの一つのヒントになれば幸いである。
(注1)「小津安二郎 映画読本」(フィルムアート社)
(注2)川本三郎「銀幕の東京 映画でよみがえる昭和」(中公新書)