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「東アジア文化都市」と「欧州文化首都」

2013/05/28

1.「東アジア文化都市」とは

「東アジア文化都市」とは、日中韓3か国において,文化芸術による発展を目指す都市を選定し、その都市において、現代の芸術文化から伝統文化,また多彩な生活文化に関連する様々な文化芸術イベント等を実施する事業である。

この「東アジア文化都市」の開催によって、東アジア域内の相互理解・連帯感の形成を促進するとともに、東アジアの多様な文化の国際発信力の強化を図ることを目指している。また、当該都市がその文化的特徴を活かして、文化芸術・クリエイティブ産業・観光の振興を推進することにより、事業実施を契機として継続的に発展することも目的としている。

スタート年となる2014年は、日中韓3カ国のそれぞれから選定された計3都市で文化芸術イベントを実施する。日本での開催都市については、この度(2013年5月)、横浜市に決定した(注1)。今後2013年中に開催される日中韓文化大臣会合において、中国及び韓国から提案される2014 年の文化都市とともに正式に決定される予定である(注2)。

横浜市では、3年に一度横浜で開催している現代アートの国際展「ヨコハマトリエンナーレ2014」を中心として、中核期間(1か月程度)を設け集中的に文化芸術関連イベントを実施するほか、1年(1月~12月)を通じてアジア関係の音楽祭や舞台芸術などさまざまなイベントの開催を目指す予定である。

なお、2015年以降は1年に1都市の開催となり、2015年は中国、2016年は韓国、2017年は日本、という順で開催していくこととなり、2018年以降も同じ順で毎年1都市を選定することが想定されている。

2.「東アジア文化都市」開催の経緯

さて、この「東アジア文化都市」はいったいどのような経緯で開催することに至ったのであろうか。

2010年5月20日に開催された第16回国際交流会議「アジアの未来」(注3)において、鳩山内閣総理大臣(当時)は下記のようにスピーチを行っており、ここで「東アジア文化都市」の構想が初めて公に提案された。

「例えば、毎年、持ち回りでアジアの芸術都市を定め、そこで様々な文化活動・芸術活動を催し、東アジアの多くの方の参加を仰ぐ、そんなプロジェクトを展開できないかと、ここに、提案いたします。芸術創造都市で多様性の発揮と融合を積み重ねることで、文化の共同体の基礎を創ることができると思うのです。最初の『東アジア芸術創造都市』が近いうちに誕生するよう、我が国は先頭に立って支援をするつもりです」(注4)

このように、「東アジア芸術創造都市」は、当初「東アジア芸術創造都市」と呼ばれていたのである。

続いて同年5月29日から30日に韓国・済州島で第3回日中韓サミットが開催され、同サミットにおいて鳩山総理から、本年の済州島を開始として東アジア芸術創造都市を実施することが提案された(注5)。

また、同年7月には、国際交流・協力を推進する上で必要な方針や具体的な施策について、提言を得ることを目的に文部科学省が設置した国際交流政策懇談会のワーキング・グループより、東アジアの交流施策の一つとして「東アジア共同で取り組む文化プロジェクトの展開(東アジア芸術創造都市(仮称)等)」(注6)が提案されている。

翌2011年1月には、奈良市で第3回日中韓文化大臣フォーラムが開催され、大臣会合に先立って、日韓・日中による二国間会談が行われた。そして、この会談で、昨年5月の日中韓サミットにおいて鳩山元総理から提案のあった「東アジア芸術創造都市」の実施などを近藤文化庁長官から韓国、中国両国に提案した(注7)。

そして、同年2月8日に閣議決定された「文化芸術の振興に関する基本的な方針(第3次基本方針)」(注8)のうち、「重点戦略6:文化発信・国際文化交流の充実」において、「将来的な東アジア共同体の構築も念頭に置き、東アジア芸術創造都市(仮称)や大学間交流における活動等、東アジア地域における国際文化交流を推進する」と記述されている。

翌2012年5月に上海で開催された第4回日中韓文化大臣フォーラムにおいては、3カ国の連携・協力をより強力に進めるため、具体的な施策を盛り込んだ初めての行動計画である「上海行動プログラム」が策定された。同プログラムの中で特に具体的な内容として、昨年開催された奈良のフォーラムで日本が提案した「東アジア文化都市」事業について、当該プログラムの中核事業として、2014年に第1回を開催することが決定された(注9)。

3.「欧州文化首都」と「東アジア文化都市」

(1)欧州文化首都の概要

実はこの「東アジア文化都市」には、企画の元となったアイデアが存在しており、それが「欧州文化首都」である。

「欧州文化首都(European Capital of Culture)」 とは、EU加盟国の2都市が協力しつつ(当初は1都市)、一年間を通じて様々な芸術文化に関する行事を開催する、という制度である。この「欧州文化首都」は、ギリシャのメリナ・メルクーリ(Melina Mercouri)(注10)文化大臣(当時)の提唱により発足し、幕開けとして1985年にアテネ(ギリシャ)で開催されて以降、欧州の各都市での開催は高い評価を得ている。「欧州文化首都」の目的は、ヨーロッパの文化の豊かさと多様性を表現することにより、ヨーロッパ人たちを相互に結びつけるとともに、世界との相互理解を深める機会とすることである。換言すると、EU統合においては、政治的・経済的な統合だけではなく、文化面での協調が重要な役割を果たす、という考えがその背景にある。そして、当初は「欧州文化都市」(European City of Culture)と呼ばれていたが、当該年において文化に関する欧州の主役となる都市という意味合いが強くなったため、2005年から現在の名称に変更された。近年では、地域活性化、特に観光客誘致を通じた経済発展と、市民の連帯意識およびコミュニティの再活性化という役割も期待されている。以下において、欧州文化首都の具体的事例を見ていきたい。

(2)ロッテルダム(2001年)

たとえば、2001年の「欧州文化首都」オランダのロッテルダムでは、「Rotterdam is manycities」というコンセプトで開催されたが、その一つ「市役所のためのプロジェクト」では、そもそもアーティストと公務員の距離間を縮めてもらおうと、公務員がアーティストのデザインした洋服を着て勤務するとか、市役所の会議の始めに詩を読むとか、同性愛者の結婚式を市役所で行うとか、日本の市役所では想像もつかないようなことまで行っている。また「タウス・イン・ロッテルダム」というプロジェクトでは、今住んでいる街と家の歴史背景を見つめ直すために、期間中は居住者にホテル住まいをしてもらって24件の家を公開した。この24軒のうちの4軒は今でもミュージアムとして見学可能である。その他、「ゼブラ村」というプログラムでは、子供のための文化拠点が整備され、2005年3月にラス・パルマスの再開発地区に移転し、同地区の発展に貢献している。

(3)リール(2004年)

また、2004年の「欧州文化首都」フランスのリールでは、市民、観光客などの参加者が白い洋服を着て踊るオープニング・イベント「白い舞踏会」に50万人が集まった。また、開催期間中の街中ではオペラのミニコンサートも行われたが、このコンサートにより、市民のオペラに対する理解が深まり、閉鎖されていたオペラハウスが再開され、今ではフランスでも有数のオペラハウスとなっている。「市役所でのロジェクト」では、リール市役所にルーブル美術館などの作品を展示し、普段は敷居が高い美術館に訪れるきっかけを与えた。この結果、アートに税金を投入することに対する市民理解や、リール市がもっていた「灰色の街」というイメージから「カラフルな街」への転換、市民の誇りの回復などが実現した。そして、前述したリール市役所にルーブル美術館の作品を展示するプロジェクトで、湿度調整やセキュリティなどの懸念もあったが、美術品を傷つけることなく、2004年に終了し、同事業を機会にルーブル美術館と信頼を築くことができた。その実績を踏まえ、また、市の投資もあり、近隣都市であるランスにルーブル美術館の別館を誘致することができた。すなわち、ルーブルの別館が実現したのは、欧州文化都市がきっかけと言えるのである。

(4)リンツ(2009年)

さらに、2009年の「欧州文化首都」オーストリアのリンツでは、「最高の歓喜」というプロジェクトが行われた。これは高いところから町を見直すというプロジェクトで、ショッピングモールの屋上や教会などに空中の渡り廊下をかけて回遊できるコースをつくり、途中に設置されたアートや街並みを参加者が楽しんだ。リンツ市民にも人気のプログラムであったが、維持管理費が大変なので残念ながら観覧車部分は撤去された。また、「ケプラー・サロン」では、リンツ出身の科学者ケプラーが住んでいた家で科学のワークショップが行われた。そして、「イン・シチュ」というプログラムでは、リンツの近郊でヒトラーが生まれたという歴史的背景から、ナチスとの関わりをもう一度見つめ直すというコンセプトで実施された。具体的には、ナチスがおこした事件現場の道に文字内容を記し、それらの文字が雨風でどんどん薄くなるプロセスと記憶の風化を重ね合わせて負の歴史を見直していくというプロジェクトであった。このほか、リンツ出身の音楽家が船でドナウ川をめぐり、各地のミュージシャンとセッションライブを行った。

(5)エッセン(2010年)

そして、2010年の「欧州文化首都」ドイツのエッセンでは、「Shaft Signs(立杭の記憶)」という、過去数十年の間で、エッセンがどれだけの変化を遂げたのかを表現し、記録として残すことを目的としたプロジェクトが実施された。このプログラムでは、エッセン市内の立杭など、鉱山関連施設があった場所のいたるところで直径5m程度の風船を上げた。それぞれの風船の下では、往時の様子を記録した写真の展示を行ったり、その施設で昔働いていた人々が集まり、鉱夫の歌を歌うなど、関連するプログラムを実施した。ほとんどの施設は既に取り壊され、現在は住宅やその他施設が建てられている。その様子を航空写真に写すことで、その変化の大きさを視覚的に表現することができた。また、市内のフォルクヴァンク美術館で「世界で最も美しい美術館」というプログラムが行われた。同プロジェクトでは、ナチスの資金調達のために国外に売り払われた作品を集めて、かつての美術館の展示を再現した。さらに、「高速道路に静かな日」というイベントでは、丸1日封鎖した高速道路で様々なイベントが行われ、市民300万人が集まった。

以上みてきたように、「欧州文化首都」は単なる文化イベントではなく、「都市が変化するための触媒」「都市の長期的文化発展戦略」などとも言われており、日本のこれからの都市も参考にできるのではないかと筆者は考えている。特に本稿で取り上げている「東アジア文化都市」においては、欧州文化首都が行ったさまざまなプログラムと同様に、日本の各都市で持っている資源やポテンシャルを踏まえながら、いろいろなチャレンジが可能ではないかと考えている。

4.「東アジア文化都市」はノーベル平和賞を目指せ

今日、この「東アジア文化都市」を2014年から開催する日本、中国、韓国は、3国の歴史において外交関係が最も困難な状況に陥っている。日本と中国の間では沖縄県・尖閣諸島の国有化が問題となっており、また、日本と韓国の間では韓国が竹島を実効支配しているという問題がある。

こうした中、本年5月25、26両日で調整していた日中韓首脳会談の開催が難しい状況となった。これは「昨年9月の沖縄県・尖閣諸島の国有化を背景に、中国が応じない構えをみせているため」(注11)と報道されている。また、この日中韓首脳会談が開催困難となった影響で、経団連は、日中関係改善を狙い5月上旬に予定していた訪中団(団長・米倉弘昌会長)の派遣を延期すると発表している(注12)。

しかし、このように政治的に困難な情勢だからこそ、日本、中国、韓国における文化による交流が必要不可欠なのではないだろうか。そして、「東アジア文化都市」の開催を通じて、東アジアの政治的紛争を平和的関係へと転換していくことができれば、それは「ノーベル平和賞」の受賞に値する偉業となるのではないかと筆者は考えている。実際、ノーベル平和賞の歴史を振り返ってみると、当然のことではあるが、紛争から平和的関係への転換に貢献した人物や組織(注13)が受賞していることが理解できる。

たとえば1973年には、ベトナム和平協定調印を理由に、アメリカのヘンリー・キッシンジャーと北ベトナムのレ・ドク・トがノーベル平和賞を共同受賞した(レ・ドク・トは受賞を辞退)。また1994年には、パレスチナ和平合意締結を理由に、イスラエルのイツハク・ラビン首相(当時)とシモン・ペレス外相(当時)、パレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファト議長(当時)が共同受賞した。さらに2009年には、アメリカのバラク・オバマ大統領が、プラハでの「核なき世界」演説に代表される核軍縮政策の呼びかけなどを理由に受賞した。そして2012年には、第二次大戦後、長期にわたり欧州大陸の平和を維持し、欧州の統合で歴史的役割を果たした欧州連合(EU)がノーベル平和賞を受賞した。一方、東アジア地域に関しては、2000年に、南北首脳会談を実現させたことが評価され、韓国の金大中大統領(当時)が受賞している(注14)。

一方で、伊東乾氏が著書『日本にノーベル賞が来る理由』(注15)で解き明かしているように、ノーベル賞とは、それぞれの専門分野において極めて高い業績さえ上げれば受賞できるというものではなく、その時々の国際政治や世界状況が色濃く反映しており、一定の意図を持って”デザイン”されて受賞者が決定されているのである。

特にノーベル平和賞においてはその傾向が顕著であり、実はノーベル平和賞は過去の実績が評価されるだけではなく、未来への希望や期待だけでも受賞理由となる。その象徴的な事例が前述した2009年のオバマ大統領の受賞であろう。この受賞は大統領への就任1年目で実績が乏しい段階での授与だったために「時期尚早ではないか」との論議が巻き起こった(注16)。オバマ大統領自身も、ノーベル平和賞受賞演説において「私が世界の舞台で仕事を終えたわけではなく、緒に就いたばかりである」(注17)ことを背景として、ノーベル平和賞の授与が大変な論争を巻き起こしたことに言及している。そして、このオバマ大統領への授与の理由が、「よりよい未来への希望を人々に与え」(注18)たという点であったのである。

「東アジア文化都市」が、その目的に掲げている通り、「東アジア域内の相互理解・連帯感の形成を促進」することができれば、そのことは東アジア3カ国の平和的な関係の構築にも大きく寄与することとなる。そして、日中韓の3カ国で「東アジア文化都市」を持続的に開催していくための事務局を共同で設置する段階となれば、それは日中韓の3カ国にとって未来へ向けての大きな希望となり、十分にノーベル賞級の成果と評価できるのではないかと筆者は考えている。

 

(注1)文化庁<http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/east_asia_130520.pdf>
(注2)文化庁によると、韓国の2014年の候補都市は光州市に決定したとのことである。
(注3)アジア太平洋地域の政治、経済界のリーダーが域内の持続的な発展について話し合う国際会議。1995年から毎年開催。
(注4)首相官邸<http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/201005/20speech.html>
(注5)外務省<http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jck/summit2010/gaiyo_1005.html>
(注6)文部科学省「東アジアにおける交流に関するワーキング・グループ最終報告書」
<http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/kokusai/007/toushin/__icsFiles/afieldfile/2010/07/21/1295903_1.pdf>
(注7)文化庁<http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2011_04/news/news_02.html>
(注8)文化庁<http://www.bunka.go.jp/bunka_gyousei/housin/pdf/kihon_housin_3ji.pdf>
(注9)文化庁月報(2012年9月)<http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2012_09/special_09/special_09.html>
(注10)メリナ・メルクーリ氏は女優としても有名。代表作に『日曜はダメよ(Never on Sunday)』(1960)等。
(注11)日本経済新聞(2013年4月22日)
(注12)Wall Street Journal(2013年4月19日)<http://jp.wsj.com/article/JJ12318277806897494161118931039830997224382.html>
(注13)ノーベル賞のうち平和賞のみ団体の受賞が認められている。過去に、赤十字国際委員会(1917年、1944年、1963年の3回)、国境なき医師団(1999年)、国際連合(2001年)、EU(2012年)などが受賞している。
(注14)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(注15)伊東乾『日本にノーベル賞が来る理由』 朝日新聞出版(2008)
(注16)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(注17)京都新聞<http://www.kyoto-np.co.jp/obama/nobel.html>
(注18)朝日新聞(2009年10月9日)<http://www.asahi.com/special/nobel/TKY200910090393.html>

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